中西章一、永眠。

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2005年8月18日午前1時5分。
中西章一は、永眠いたしました。
享年74歳。

 父、中西章一は、15年前腎臓病と診断され、
人工透析を受けておりました。
始めは週一回、そして、年数を重ねるごとに、
回数と時間が増え、最終的には週三回四時間の透析をしていました。

 透析はとても暇だったようで、うとうとと眠ってしまったり、
本を読んだりテレビを見たりと、時間をつぶすのがつまらなかったようです。
でも、これがないと死んでしまう。だから、少しでも快適に透析を
受けようと、看護師さんと仲良くなっておしゃべりを楽しんだり
大好きな作家浅田次郎の本を読んだりしていました。

透析13年目のおととし。
すでにテレビやラジオの仕事を引退していたので、
今時風にいうなら、フリーターなわけです。
自由な時間は、そこそこありました。
丁度娘の私に子供ができ、父にとっての孫が誕生しました。
父は、孫の亮太を、とてもかわいがってくれました。
そして、事あるごとに子育ての疲れを訴える私を、
自分が運転する車にのせ、孫の亮太と共に
実家へ連れて行ってくれたり、
亮太と二人で公園に行ったりして遊んでくれました。

とても、幸せでした。

私と父が、一番密接に、そして一番心を触れ合わせて接していた
時でした。

透析14年目の昨年。
父の体は、限界が近い事を告げていました。
足の壊死が始まったのです。
それは、とても辛い激痛でした。
しかし、それでも父は、まだ体の自由が利くうちに、と
頻繁に出かけるようになりました。
痛い足をおして、車に乗り、私ともう一人増えた二人の孫を迎えにきて
同じ時間を共有しました。

でも、父の体は、子供と思いっきり遊べるほど
自由ではありませんでした。
それでも、私も父も、家族みんな、
幸せでした。

今年に入り、父の容態は徐々に悪化していきました。
それでも、父は、やはり私の家に来てくれました。

倒れる、ギリギリまで。

足の痛みは、日ごとに増し、
明らかに危険な状態になっていました。
靴など、とうに履けなくなり、
歩く事も、ままならなくなった7月。
透析の先生の薦めで、
足の治療を目的として、
慢性的な下肢の傷を治療する専門外来、創傷ケアセンターがある
北海道循環器病院へ入院することになりました。
父の足の痛みは、夜眠ることも許さないほどで、
検査をしつつも、まずは痛みを取る治療が始まりました。
それは、強い痛み止めを
随時、脊髄から直接入れるというものでした。

父の痛みは、やわらぎました。
その代わり、強い薬で、父の意識は靄にかかったような
ものになりました。
それでも、痛みを取って眠ることが必要でした。

ある日、私は病院にお見舞いに行きました。
チビ二人を連れて、バスにのって地下鉄に乗って、
路面電車にのって、ピクニック気分で行きました。
父は元気でした。
しかし、右目の回りを真っ青に腫らせていたんです。
「どうしたの?!?!その目!!」
病室に入るや否や、私は驚きの声を上げました。
すると、父。なんていったと思います?
『いやぁ、俺、病院抜け出してさ、ススキノ飲みに行って
喧嘩してきたんだぞ』
…まったく馬鹿な冗談ばっかり。大きく溜め息をつく私。
実は、痛みを取る簡易的な薬で寝ぼけてしまい、
ベットから転げ落ちたのだそうで。
そんな父を連れて、私は病院の外で
一緒に煙草を吸いに行きました。
父はもう歩けません。車椅子に乗せて、
ゆっくりと裏口へ出て。
そして二人でスパースパーと煙草を一本。
何気ない会話と、今後のシビルウェディングの構想。
二人きりで、煙草吸って、病室へと戻りました。

それが、父と会話した最後でした。


数日後。
父が、突然意識不明となりました。
原因は不整脈。
瞬く間に重篤状態となり、私たちは病院に呼び出されていました。
そして主治医は私たちに、あることを告知しました。

『心臓が酷く弱っています。』

もともと、不整脈をもっていた父です。
とうぜん、心臓がおかしくなっているのは判っていました。
しかし、先生が言う弱っている、は、
私たちが思っているよりも、はるかに悪い状態を指していました。
心臓には、四つの弁があり、その弁が開閉することで
心臓の機能をまっとうさせています。
父の心臓は四つのうちの三つが、機能していませんでした。

みなさんなら、どうするでしょう。
73歳の透析15年目の老人、
足の壊死が進み、見た目に判るほど、衰弱した人に対し
心臓の手術をしますか?

私たちは、迷わず心臓の手術をお願いしました。
先生が手術をしますか、と問う前に、
結論はでていたんです。

父なら、絶対にお願いしている。

父が日ごろ言っていたこと。
それは、
『俺が瀕死になったとき、最善の治療をしてくれ。
治ると思うことなら、どんな状態でも、治療をしてくれ』
だったからです。
このまま、なにもせず衰弱していく父は、
中西章一ではないんです。
全てに前向きで、全てに全力投球するのが、
中西章一なんです。

手術をするために、検査が始まりました。
様々な検査をしたようです。
そして、たった一日、その検査をしているうちに、
足の壊死は侵攻してしまいました。
『心臓よりも、足の切断が先です』
主治医は言いました。
私たち家族は、一瞬何を言っているのか判りませんでした。
足の壊死を軽く見ていた、わけではないのですが。
壊死した場所から、毒素が体を侵して行く。
そのスピードは、想像を超えていました。

急遽、足の切断手術が始まりました。
私は複雑でした。
それで助かるなら、なんの問題もない。
でも。
父の大好きな下駄が、履けなくなる。
それだけが、なんとなく悲しかった。
そんな想いで、手術の同意書にサインをしていました。

手術、成功。
心臓も、動いている。

予想以上に、父はがんばりを見せたんです。
先生も驚いていました。
そして、すぐさま二日後に心臓の手術をする、ということとなったのです。

心臓手術当日。
私は家にいました。
朝9時から始まった手術、とても長い時間がかかるとのこと。
子供二人を抱えた私は、病院で待機できない。
だから、病院から、成功の知らせを聞くことを待っていました。

手術成功。17時間にも及ぶ、大手術!

そんな第一報が入ったのは、深夜の一時を回っていました。

しかし。実は完全なる成功ではなかったんです。
心臓の手術は成功、それは間違いない。
でも。
父の心臓は、自力で動いてはくれませんでした。
人工心肺を装着したまま、肋骨も開いたまま胸を閉じたのです。
人工心肺は、最大もって一週間。
先生は、心臓と血圧の様子をみて、
状態が良くなったら、その機器類をはずす、といいました。

しかし、次から次へと問題は増えました。
今度は、心臓付近から出血があり、血の塊を除去しなくては
なりませんでした。
緊急手術、そして成功。
ひとつひとつは全部成功しているのに、
問題がまた増えるのです。
いたちごっこもいいところ。
でも、父はさすがに強かった。
それをどんどん克服していったのです。

8月16日。
主治医は最後の手術に取り掛かりました。
人工心肺の撤去。
これが終われば、あとは回復を待つだけでした。

リスクは高い。それでもチャレンジするのが中西章一。

まさに、この戦いは父そのものでした。

人工心肺撤去、成功!

ただし、血圧が上がらないため、簡易の人工心肺装着。

でも、これは手術無しで撤去できるものでした。
「ご家族の方は、帰っていいですよ」
病院側から、そういわれ、本当に成功したのだと
安心しきっていました。
先生も、にこやかで、本当にやりとげた!という表情を見せています。

誰もが安心して、自宅で眠りました。

翌、8月17日。
病院から呼び出しがあれば、見舞いにいく、
なければ、一日休養しようということで、
私たち家族は、それぞれの家で、日常を過ごしていました。

午後二時。電話。
父、危篤。

予想外でした。
血圧の低下、そして内臓からの出血。

きっと、全ての戦いを終えて、
父は安心したのでしょう。
体が、安らぎを求めていました。


父は、細い息をしながら、眠っていました。


『俺は勝ったぞ!全部克服した!!』


そう、言っているように思いました。


病を完治させ、生還することだけが、勝利ではない。
生きる、ということだけが、勝利じゃないんです。



父は、会いたい人に会うまで、息をしていました。

そして、午前1時5分。
中西章一は、ゆっくりと眠りにつきました。



気づけば、父は本当に、全部の病気を治してから
旅立っていました。

人工透析の辛さも克服し、心臓の疾患を完治させ、
足の創傷も治し、痛みも苦しみも完全に消し去ったんです。

それは、とても凄いことだと思うのです。

73歳で逝去するのが、早いと言って下さる方も多く、
私もそう思っています。
でも。
父は、老いという戦いにも、勝利したんです。
老いて見た目を崩すことを選ばず、
格好良く、永遠に。ということを選んだんです。


父は、常に格好良くありたい、と思う人でした。
そして私は、そんな父が好きでした。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今、まだ私は、多少の混乱と悲しみの中にいて、
思うように事実を伝えることができません。

でも。

何気なく、父のHPを見たとき。
カウンターが、190も回っていて。

ああ。父の訃報を知り、サイトを検索してくださった方々がいらっしゃったんだ。

と思った時、
この、父のことを、まずお知らせしなくてはと
想い、急いでページを造ったところです。

支離滅裂な文章ですみません。
もう少し、落ち着いたら。
父のこと、書いて行こうと思っています。

だから、このサイトは残ります。

そして、皆様の心の中で、
中西章一を、時々思い出していただけたら、幸いです。

本当に、ご声援ありがとうございました!


娘 ありおん 拝
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